鳥と桜


春夏と
秋冬過ぎて
またも春
巡り不可思議
風 戯れて






あけましておめでとうございます

新玉は
常に生まれて
流れゆく
本然まこと
めでたき春よ

美しい年でありますように・・!

目覚めてこそ


目覚めてこそ

光を得ることできぬなら ただ闇の中に蠢き 夢の如き生を紡ぐのみ

深き昏睡 無限に続くとも判らぬ 狂気のような悪夢

その暗がりの中 救われようと藻掻き足掻いて

蜃気楼の中に見つけた幾多の慰め 

“希望”“夢”“努力”など

諸行無常の大河に浮かび 沈み 時に速く 時に遅く

流れ流れて 真実の大海に消え失せていく

数多の煩悩 怒り 悲しみ 憎しみ 悲嘆やら 

権力 支配 金銭 優越への飽くなき欲望 切望 願望 数えて尽きぬ砂の如

自我と自我 互いに争い 闘い ひたすら苦悩の中に埋没し

重く 暗く ひしめき合うはこの娑婆世界

自ら傷つき 他者を傷つけ 無間の地獄を走り回る

無用の物を作り出し 殺戮の遊具を弄ぶ

怒りの儘に殺し合い 深層の底に眠る心の焦土が現実のものとなる

弥陀に聴くことできぬなら ただ今此処で観てある仏を観ること能わずば

目覚めることのできぬなら 差取りを得ることできぬなら

吾仏なりと正しく想起できぬなら 自らの本性を思い起こすこと叶わぬなら

喜びこそ本性 慈悲こそ本然  理由無き法悦こそ吾が踊り

このあるがままの吾を忘却の彼方に葬り去るというのなら

ただ今此処に降り注ぐ 阿弥陀の光 無限の光を一瞥もせずにいるのなら

ただひたすら盲目の如く 煩悩の働きに身を任せるのなら

一つの砂粒の如き 幾ばくかの良心を頼りに この世の善を積もうとも

怒りと共に正義を信じ 全力もて悪しきものたちと雄々しく闘おうと

闇の変わることはない 地獄の変わることはない

光をもたらす以外(ほか) 意識をもたらす以外(ほか)

悪しきと思うことに異を唱え その全力を捧げて大いに叫ぶとも

この身 あの身が救われ この世が浄土の如くなるというは

まさしく戯れ言 譫言(うわごと) 夢のまた夢 幻のまた幻

内の世界が変容すれば 外の世界自ずと変わる

内が変わらずば 外は変わらぬ

光無く 意識無く 自覚無く 外が変わるように見えるとするなら

安心無く 喜び無く 差取り無く 外の世界が変わるとするのなら 

それはただの見せかけ 虚仮の産物

それは同じ闇の中から出ずる作り物 同じ病に変わりなし

不幸な男が 不幸な女に変わる如き 

報われぬな犬が 報われぬ人間に変わる如き

海の戦いが 陸の戦いに変わる如き 怪我が病気に変わる如きもの

今こそ求める時 まさに只今こそ自らの本性を求める時

識る時は今 無限に広がる栄光 無限に広がる喜びの踊り

それこそまさに吾が自然(じねん)

これこそ これこそ! 喜びの中の喜び 安心の中の安心

この心こそ この光こそ この喜びこそ この歌こそ この踊りこそ・・!

闇に沈むこの娑婆世界に光をもたらし 美しき様に変容しうる究極の鍵

阿弥陀の声 疾うに届いていたことを識る人 

久遠の慈悲こそこの世の有り様 これを識る人

大安心に寛ぎながら その臨在 その光明 まさに此処に輝いて

この娑婆世界は 新しく 美しく変容する

多くの者が求めては挫折してきた 多くの者が夢見ては絶望してきた

“愛”“慈悲”“歓喜”“笑い”に溢れる 新しき世界

諸行無常をも喜び 軽やかに踊るように旅をする新鮮な意識

これこそ“これ” これこそ“ひかり” これこそ“目覚め”これこそ“真理”

目覚めてこそ 目覚めてこそ 

吾を識り あるがままの有り様を識る 

観照するもの顕れ 光おおいに地獄を照らす

その時まさに 闇に蠢くこの身この娑婆


まさしく変容を遂げ 吾は法悦の踊り手 此処は法悦の浄土となろう








「うた」を思い出した


約20年前のことだ。
自身の内奥にあって無限に湧き出でている喜びを詩にして創り、歌いたいという切なる想いがやってきた。
そして歌うことを再開した。

真理を追い求め、時には絶望し、時には喜び、憧れと苦悩の旅を続け行き着いた所は和尚のスペースだった。
深い慈悲の導きを受け、旅の最後に大いなる歓喜を味わい、それを生きることとなった。
限りない感謝、喜び、理解が止めどなく溢れている。
これを歌にして表現したいという想いがやってきた。
詩が生まれ、曲が生まれ、そして歌った。
それはまさに「無」からやってきた恵みであり、
それを歌うことの嬉しさは計り知れないものだ。

そうしているうちに、音楽をやめていたその前の“失われた”20年間を思い起こすようになり、過ぎ去った時間を少しでも取り戻したいような、非常に曖昧な、もやもやとした想いがマインドに行き来するようになった。

何か遙か昔に置き忘れた宝物を探すような気持ち。そんな宝物など存在しないと最初から分かっているはずなのに。
技術を思い出すと共に頭が支配し始めていたのかもしれない。マインドが夢を紡ぎ、その中へと落ちていったのだろう。

そもそも過去は消えている。もうすでに存在してはいない。マインドはいつもするように不可能なことを相手にもがき続ける。
実に滑稽な“我がココロ”だ。可愛くて愛嬌があるが、それが「自分」であると勘違いし始めるとちょいと面倒だ。

しかし今
黒雲は晴れ大空が広がった!
過去などどうでもいいのだ!
この喜びを歌いたいという原点が今再び此処にある。
瞑想と共に・・否、瞑想が歌うのだ。
内なる歓喜の衝動が歌っている!

「うた」を思い出した。
何故かは知らない。突然それはやってきた。
空から降り注いだ、存在の奥底から湧き出でた!

存在の慈悲、和尚の導き、阿弥陀の計らいというものなのだろう。
存在の歌、阿弥陀の歌、この法悦の歌が風のようにまたここにやってきた。
今まさに中空の竹が歌う!

今はこのエネルギーを楽しむことにしよう。

去る7月30日、ライブスペースSHOJIMARUで行われた「円空」のライブ“極楽'n Roll Show”。
素晴らしい時間を過ごすことが出来ました。
お集まり頂いた方々、SHOJIMARUスタッフの皆さん、そして吾が敬愛する円空のメンバーに深い感謝を捧げます。

合掌 DAIJO
















Mad Man Sutra 12.不思議なことだ


自らの本然、あるがままの真理は失われたことはない
生まれた時から いやもっとその前から それはここにあった
ありのままの自然として

“わたし”はそもそも それそのもの
仏性であり 永遠であり 存在そのもの
無であり 空であり 宇宙そのものだ

いつから思考が支配し始めたのだろう
いつから錯覚が支配し始めたのだろう
あからさまな真実は
そっくりそのままここにあるというのに

隠されたことなど一度も無い
そのベールははぎ取られたまま目前に現れている

いつから“自分”は肉体だと思い込んだのだろう
いつから“自分”は心だと思い込んだのだろう
いつから“自分”は限りあるものだと思い込んだのだろう
いつから“自分”は永遠ではないと思い込んだのだろう

誰かに言われたのだろうか
誰も彼もがそう思い込んでいるので、それが真実であると受け入れてしまったのだろうか
不思議なことだ 不思議なことだ

幼い頃 物心ついた頃 
私は確かに知っていた
遠く朧気ながらその永遠の感覚をただ生きていたという感触が記憶の中に確かにある
ただその永遠性を当たり前のこととしてそれを生きていた
ただ目の当たりにあるものを
ただそこにある“あるがまま”を生きていた

自我が芽生えるにつれ
それは次第に置き去りにされた
恰も覆い隠されたかのように
不可視なものとなっていった

思考が権力を持つようになったのだろう
思考がこの精神肉体システムを恰も支配するかのように振る舞い始めたのだろう
周囲からかき集めた情報、親や教師をはじめとする“社会”に教え込まれた常識や道徳、
彼らに共通した“夢の中”の感覚、観念がいつしか権力を持ち“自分”を支配し始めた

しかし不思議なことだ
ありのままの真理は相も変わらず剥き出しで目の前にある
この真実は一度たりとも隠されたことはない
自ら目を閉じてしまったのだろう
夢の中へ落ちてしまったのだろう
幻想のドラマの中へと落ちてしまったのだろう

この“ありのままの真理”はいつしか秘密の事柄になってしまった
「隠されたもの」「神秘なるもの」となってしまったかのようだ
不思議なことだ 不思議なことだ

そして今
夢の雲は去り
晴れ上がった大空は今此処に在る
すべてはありのままに在る
ただそれだけのこと
何物にも触れられない永遠性と静寂、安らぎがある
不思議なことだ




Mad Man Sutra 11. 頑張って努力して信じるのだ?


テレビでサッカーの国際試合を見ていると試合前、応援する日本人にインタビューしている様子が時折テレビで放映される。
「日本は勝つと思いますか?」という質問をされると、
「はい、もちろん絶対に勝つと信じています!」と言う。
勝利を信じている・・。心に誓って勝つと“信じて”いるのだ。負けるかも知れないという疑いを振り払って、力尽くで勝利を願い、懸命に信じているというわけである。
心の底から信じて疑わないというのではない。努力して疑いを振り払っている。

この情景は、“信じる”という事柄を実に象徴している。

念仏を唱えると極楽浄土に生まれることができると阿弥陀さんは言ってます。
ありがたいですね、信じましょう。
でも信じて念仏しないとダメなんですよ~。少しでも疑ったらアウトなんです。みんな悪業を持ってますから地獄へ行っちゃうかもですよ~。ですから信じましょう。
と言われて、「はい~承知しました、信じます」という素直な人はいるかも知れないが、その場合でも心の底から阿弥陀仏の言葉を信じているというわけにはいかないかも知れない。

努力がそこにあるだろうことは容易に想像がつく。勿論、天性の宗教的感覚の優れている純粋なハートの持ち主もいるのだろうが、それは極めて希なことだろう。
教育によって、情報知識を詰め込まれた現代人は、信頼するという質を著しく欠いてきてしまったようだ。

頭、脳味噌が主体の生活である。
頭は情報データを基にした証明が必要なシステムなので、社会生活を送るに当たっては、優秀な能力を発揮する、とても便利なものである。
その反面、データに一致しないもの、未知の事柄をストレートに受け入れるということは苦手としている。
体験や教え込まれた知識を基にして未来を予測することは得意だが、未知のことに関しては信頼という質が必要だ。

信じなさいと言われて、はい分かりました信じましょうということは多くの場合、嘘を伴うことになる。
頭では信じなければならないという思考が作られ、それを実行しようとする努力というものが生まれる。
ガンバって信じようとする。自分に信じることを強要するのである。
それはハートからの、心底からの信頼、幼子が親を無条件に信頼しているような心の質ではあり得ないということは明白なことだ。

教えを信じなさいと言われ、はい、分かりました、信じますということ。これを正確に言うと、はい、分かりました、信じるように努力しますということだ。

“信じる”というのは、努力して信じるということだ。
頑張って無理をしてでも“信じる”ということである。
多少の疑いがあっても信じるということを強いるのだ。
要するに自分自身に嘘を強制し、自分は信じているのだということを何とかして作り上げようとするということである。

その努力を続け、疑念を潜在意識の闇に押し込め、ほぼ完全に封印することに成功すると、「自分は信じている」という思い込みが心を支配することになる。
奮闘努力の果て、自分は信じているということを信じ込んでいるマインドを完成させる。

私は信じている。今や信心を獲得したのだと“信じている”のだ。

喜びに満ちて、それを体験し理解した暁に信頼の境地に達したということとは全く別の次元の話だ。
今や心の奥底に押し込め、見えないようにしてしまった疑念は、深いところからその波動を送り続けている。
表面を取り繕ってはいるものの、心底にある未解決の“疑い”は、全面的な歓喜をその人に許してはくれないだろう。
人工的に作りあげた“私は信じている”という信念は、あまり役に立たない。








Mad Man Sutra 10. あみださんはほっとかない


♪あみださんはほっとかない
♪ほっとか ほっとか ほっとかない
♪ほとけさんとはいうけれど
♪ほっとか ほっとかない

寺で僧侶が教えを述べ極楽などについて語り、聴衆はそれを聞いて頷いている風景はそんなに悪いものではない。
真理のように聞こえるそれは、耳に心地よく、ある種の安堵感を持ってそれを楽しめるものだ。

単に知識を得ようとするのなら、自分の持って居る既成概念をさらに強固にし、その中の充足感を楽しむということならそれで充分なのだろう。
だがしかし、それは心の深いところで求め続けている真理への道を閉ざすことになってしまうことにもなるのだ。

知識を得るということは、どこか他人事のようにそれを聴く。自分というエゴが犯される心配が無いので、「良い話」として受け入れ感心もする。
煩悩まみれの自我も意識されることが殆どないのでエゴにとっては居心地の良いことだろう。

だが、聴く者が本当に道を求め、自らの本性を見つけ出し、真理の謎を追究したいと真に望むのなら、これとは大いに質の違う謙虚で真摯な姿勢が必要となる。
先入観や既に持っている知識を脇に置き、虚心坦懐な姿勢でことに臨むことは大切なことのひとつだ。

それさえあれば、どこで何を聴いても、たとえ自然の中で鳥の声や風の音を聴いても、そのものたちの仏性の響きまでをも聴き、真理への旅路を進めることができる。

何を見て何を聴くかという問題ではない。受け取る側の質の問題である。
大いに関係するのが、探求者の“真理を求める心”の強さだろう。

求める者が大いなる渇望と共に真に“それ”を乞い願い、希求する時、宇宙の必然として人知を超えた神秘が働く。
そして必要なものや事柄は向こうからやってくることになる。
それは道を智る人かも知れないし、本かも知れない。或いは美しい景色や風の囁きかも知れない。赤ん坊の泣き声や鳥の囀り・・等々。
ありとあらゆるものたちが、求める者に真理を指し示すことだろう。すべて目の前に展開される事象が導師となるのだ。

だが、自らの存在に深く分け入って、生死の神秘を見つけ出し、自由無碍な境地に入っていこうとするには、並々ならぬ覚悟が求められる。
探求者自らが発意決心し、自らの足でその道に入っていかねばならない。
勿論、この決心という行為も“阿弥陀の計らい”故のことではあるのだが、それを話し始めるとかなりの長文になってしまうので、他の機会に譲ることにする。

すっかり自分自身そのものであると思っていた自我(エゴ)は、旅が進むにつれて段々とその存在感が希薄になってゆく。そして最後にその自我は単なる“機能”もしくは“システム”だったという理解が訪れることになる。

本当の吾はこのシステムを観ている古来より“空”と呼ばれてきたものだという了解が生まれ、途轍もない歓喜と共に自由無碍な境地へと解放が起こるのだ。

しかし、その旅の途上では、自我(エゴ)に光が当てられ、自らの内にある怒り、悲しみ、嫉妬、強欲、恨み、嫉み等々の煩悩達が露わにされることになる。
念仏他力門の仏教が言う「弥陀の光に照らされる」というのは正にこの事を指す。

時として痛みが伴うこの出来事からエゴは自らを守ろうとする。旅を始める前の場所へ、揺るぎない地位を確保されていた所へ逃げ帰ろうと試みることもある。

しかし存在は、阿弥陀は放ってはおかない。ありとあらゆる“計らい”を駆使してその旅に連れ戻そうとする。
容赦ない存在の光、弥陀の光は何時でも何処でも照らし続けて、探求者に生死の問題を解決させ、煩悩渦巻く輪廻の苦闘から脱出をさせようと一心に働いてくれるのだ。

弥陀の光に照らされ、露わになった煩悩達。
しかし、それは自分ではなく、本当の自分は光を照らしている側の仏そのものなのだ。
阿弥陀である本当の自分は、無上の躍り上がるような喜びを吾々に味わわせようと四六時中、働きかけているのだ。

阿弥陀の大慈悲とはまさにこのことである。
何処までも何処までも追いかけて、あらゆるものに姿を変え悟りに至らしめようとする働き。
真理の境地へと導く無限の光、それが弥陀の大慈悲と言われるものだ。

♪あみださんはほっとかない
♪ほっとか ほっとか ほっとかない
♪ほとけさんとはいうけれど
♪ほっとか ほっとかない
♪隠れてみても ほっとかない
♪いくら逃げても ほっとかない
♪嫌だと言っても ほっとかない
♪ほっておいて欲しい時もある
♪だけど そんなことはお構いなしに
♪ほっとか ほっとかない


「あみださんはほっとかない」
 Lyric by DAIJO